人の死、日本人ジャーナリストの死、木村コーチの死、… 長文

人の死に立ち会ったことが無い。
もし、立ち会ったとしたら、どんな感情が浮かんでくるだろう?
4/10(土)夜のTV大仏開眼藤原仲麻呂の最期のシーンで、そう思った。
その瞬間の直前まで、そこに意識が存在していたのに、その瞬間から
その意識は消えている。誰も感じることが出来ない。でも、その意識を
支えていた肉体はそこにある。
その肉体はもう動くことはない。
身体に血液を循環させていた鼓動が停止し、呼吸が止み酸素の循環も停止。
脳の活動が鈍り、意識が遠のく。自律神経系も停止。意識は二度と戻らない。
全ての細胞が死んでしまうわけじゃない。爪や髪は伸び続けるという。
動くことのない肉体が目の前にある。
でも、意識はない。
意識は周りの人に影響する。
意識は身体のどこかに現れるから。
だから周囲は彼が生きてることを感じることが出来る。


人の死に立ち会う側の脳に浮かぶものは何だろう。
死に到るまでの関わり方で浮かぶ感情は様々だろう。
その死を受け入れるまでに要する時間もまちまちだろう。
脳の中にぽっかりとできる穴に大小があり、そこに何かが埋まるまで
受け入れることは出来ないだろう。


ひょっとして、脳だけを生かしておくことが出来たら、
意識は存在するんだろうか?
いやいや、いつか自滅してしまうだろう。
動かす身体が無いのだから。何も感じないのだから。
何も感じない環境で人間は生きていけないのだから。
だから、きっと脳は病気になる。そして自殺する。
アポトーシスって知ってるだろうか?
細胞が自殺するんだよ。


タイの騒乱で日本人ジャーナリストが銃撃され死亡した。
人生の半ばにも達していなかったはず。予期せぬ死。

巨人軍の木村コーチが脳梗塞でこの世を去った。
これも予期せぬ死。

ご家族やファンの方々の衝撃は計り知れない。
そもそも、その死を受け入れることが出来ないはず。
まるで死の兆候が無かったのだから。


病死なら比較的短時間で受け入れられるでしょう。
静かに、密やかに、死を受け入れる準備を脳が勝手にするはずだから。


木村コーチは倒れてから死亡が確認されるまでの数日間は、脳が
戦ったんだろうと思う。たぶん必死に。
脳は生きようとしたに違いない。
妻や子供達と意思を通じ合わせようと必死だっただろう。
意識だけははっきりしてたのかも知れない。
でも身体は動かすことが出来ない。
運動中枢が壊れてしまったから。
こうなると、まるで金縛り状態と同じなんじゃないか。
意識は動いている。でも身体は動かない。
眼球すら動かすことが出来ない。
そのうち意識を生む脳のエネルギーが足りなくなって、
活動が停止してしまう。


ちょっと待てよ。
脳を生かし続けることが出来れば、いつか運動中枢を復活させて
脳と肉体がリンクし、復活することが出来るのかも。
破壊された脳の部分に幹細胞を注射すれば復活するかも知れない。


脱線しっぱなしだけど、
脳と肉体の死は同期しないことがあるんだと思う。


井上ひさしさんが亡くなった。
世界的な著名人の死。
あるTV報道で、アメリカの誰かのコメントが伝えられた。
「……現代文学界にとって大きな損失だ…」
こういうメッセージはよく聞く。これは故人に対する最大級の賛辞。
それだけ故人の生前の活動が多くの人々に影響を与えたということ。
もっと長く生きて欲しかった。
capもファンだった。
でもその死の報道に驚きはしたものの、冷静に受け止めることが出来た。
というか、すっと脳に入りすっと記憶された。
高齢だと分かっていたからかな。


去年、忌野清志郎が、がん再発で帰らぬ人となった時、言葉を失った。
2度目の復活は難しいだろうと密かに思いつつ、帰って来てくれと
願っていたから。
脳にぽっかり小さい穴ができた。
弔いだと、カラオケで「雨上がりの夜空に」を歌うことで、穴を埋めた。
そして、100歳を超えても、スナックでこの歌を歌うんだと思った。


今年の2月、友達がこの世を去った。言葉を失った。
脳にぽっかり穴ができた。
思い出す度に涙が溢れそうになった。
ブログ友の言葉が力をくれた。
現場の忙しさに紛れさせた。


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