鴻臚館跡展示館で古代にトリップ

福岡城天守台跡より福岡ドームを望む(本文無関係)

ひいらぎを出て福岡市美術館に行こうと舞鶴公園経由で大濠公園へ向かう
途中、鴻臚(こうろ)館跡展示館に寄り道。
鴻臚館は7世紀〜11世紀の朝鮮や中国に開かれた迎賓館だったらしい。
7〜11世紀といえば古代の飛鳥、奈良、平安時代
当時は海岸線がこのあたりだったらしく、鴻臚館はその海沿いに建ってい
たんだって。
朝鮮や大陸からの使節団を迎え、最高のもてなしをする場。
使節団の多くはこの鴻臚館より国内に入ることはできず、国書等を携えた
ほんの一部の使節が内陸の大宰府に案内されたらしい。
大陸に対する畏怖と見栄が入り交じった国家施設だったんだろう。

鴻臚館跡展示館のパンフレットを読んでみて、これまで太宰府都府楼跡
や水城、王塚古墳なんかを見て歩いたcapはこんなこと(以下)を感じた
んだ。
7世紀といえば、そのど真ん中の645年に大化の改新があった時代で、
改新前は律令国家ではないわけよね。つまり、まだ大和朝廷時代ではない
ってことかな。つまり当時の日本国はいくつかの王朝が並立してそれぞれ
の地方を支配していたはず。
鴻臚館の年表には608年に遣隋使・小野妹子が筑紫に帰着。翌609年
百済の僧を迎賓したとある。

 待てよ、小野妹子ってどの王朝の人間だったんだ?この時代がまだ日本
国として統一されていなかったとしたら、少なくとも、大和国がこの九州
の地を支配していたわけがなく、この筑紫を支配していた王朝・筑紫国
朝鮮半島の一部にも少なくとも影響力を持っており、その結果百済から
僧侶が来たというか、招いたというのが自然かなぁ。
小野妹子はこの筑紫か百済の人間だったんじゃないの?

でも小野妹子を派遣したのは推古天皇ということだし、やはり大和の人間
かな。とすると、大和と筑紫は対立はしていなかった。筑紫は朝鮮や中国
との貿易を背景に豊かだったに違いないので、大和は筑紫とは友好関係に
あったはず。

その後、中国では隋が滅んで唐が立った。一方、朝鮮では北の高句麗
勢力を伸ばしていたが、唐が南の新羅と結んでこれを制圧し、更に百済
を攻める。
筑紫・大和連合としては百済を死守したい。
大和はこれを筑紫弱体化の好機と捉えたかどうかは分からないが、
筑紫勢を主力として百済へ進軍する。結果は唐・新羅軍に大敗。これが
白村江の戦い。筑紫はこれを境に弱体化する。

大和は積極的に筑紫を支援し、唐・新羅軍が日本国に攻め入ることを念頭
に防御を固める。

この頃、大宰府は湾岸にあったとされており、これを内陸に移す、つまり
筑紫の遷都を強力に推進したのだろう。水城、大野城、基肄城を建設し
唐・新羅軍の攻撃に備えた。
この遷都事業により筑紫は更に国力を弱めたんじゃないかな。そして、大
和なしでの国力維持は有り得なくなり、ここに大和による日本統一の素地
が固まったんじゃないだろうか。

と素人的裏付けなしフィクションを想像したcapだった。(笑)
こんな風に考えると邪馬台国はここ福岡にあったというのが自然だなぁ。