唐仁古墳群に行って来た 大隈半島

いま出張中です。
鹿児島県鹿屋市のニューワールドホテルに滞在してて、東串良町のお客様の
ところへ通ってます。3月半ばまで。長いなぁ。

昨日は午後からフリーになったので、以前から行ってみたいと思っていた
唐仁古墳群に行って来ました。

ここ唐仁古墳群には140基くらいの古墳があるそうです。
その中で最大のものは大塚古墳と言い、ここの1号墳です。
この古墳はかなり大きいです。長径185m。高さ約11m。
この古墳の上に島津家が1194年に神社を建立し、
大塚神社として残されています。


古墳の形は前方後円墳
ということは、大和朝廷の王族の古墳ということになります。
ネットで調べてみたら、5世紀後半のものらしい。
この時代に大和朝廷の力が鹿児島の大隈半島にまで及んでいたということ
ですね。
確か宮崎の西都原古墳群にも前方後円墳があったと記憶しています。


九州の太平洋側は大和朝廷に支配されていたんでしょう。
まぁ、地形を考えると当然と言えば当然ですよね。
穏やかな瀬戸内海を通じて太平洋沿岸沿いに南下して、圧倒的な財力や
武器力で制圧したんでしょう。
大和朝廷の大型船の襲来は江戸時代末期の黒舟と同じような衝撃をこの地の
住民に与えたに違いないと勝手に想像しています。


東串良の辺りは志布志湾が太平洋に口を広げていて、砂浜が延々と続いて
います。
大和軍の上陸は容易だったでしょう。
上陸すると広大な平野と大きな川(肝属川)があり、そこには支配欲の湧く
肥沃な土地があったわけです。
ひょっとしたら肝属川を小船でさかのぼったかも知れないですね。
肥沃な土地は河口から少し上流にあるわけですから。
そういう土地が唐仁地区だったのでしょう。


古墳は前方後円墳だけではなく、大小の円墳もあるようです。
実際に直径3m程度で高さ数十cmというただの盛土にしか見えない古墳を
見ました。


これらの円墳は地元住民達のものでしょう。
円墳と前方後円墳の混在。
これは何を示唆してくれるのでしょうか。

ひょっとしたら、住民達は大和朝廷から派遣された王族を平和裏に迎え
入れたのかも知れない。


いやいや、そもそも大和朝廷が制圧したのではなく、最初から大和朝廷
一員だったのかも知れない。

実は志布志湾の柏原地区には神武天皇の東征出航伝説があります。
大和朝廷成立以前からこの地は繁栄していたと思われます。
そしてその豪族が大和朝廷成立に力を尽くしたのかも知れません。
もしそういうことであれば、大和軍との戦いは無かったでしょう。


この地は卑弥呼以前から栄えていたはず。
九州の熊襲族が覇を唱えていたんじゃないでしょうか。
熊襲は戦ったのでしょうか?
熊襲は九州を支配下に置かんがために水軍力のある瀬戸内の豪族と手を組ん
でいたのかも知れませんよね。
各地に同盟を結ぶ豪族がいて、その同盟団が大和朝廷の原型になったのかも
知れないですよ。
それは大陸や半島の脅威に対抗するためだったかも知れませんけど。


国の成立以前には共通の外圧という脅威がきっかけになって団結するという
ことがあったはずですもんね。
それが卑弥呼を歴史に登場させることになった。


まぁ、歴史ってものは、想像すると面白いですね。

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