龍馬暗殺に思う、大政奉還あたりの日本

1867年10月15日大政奉還
同年11月15日  龍馬暗殺。享年33歳
同年11月17日  中岡慎太郎死去。享年30歳

新政府は翌年立ち上がったのかな。明治元年って1868年だよね。ってことで調べてみたら、やはり1868年だった。慶応4年でもある。


ところで、なぜ龍馬は簡単に暗殺されたのか?と考えてみた。
それは、暗殺犯が簡単に入れる民間の家(近江屋)に居たからだよな、と考えてみると、なんで目と鼻の先に在った土佐藩邸に居なかったんだろうという疑問が湧いて来る。
大政奉還に向けてあれだけの活躍をした人間をなぜ土佐藩は保護しなかったんだろう?
やろうと思えば造作も無いことだったはず。なのにそうしなかった。
大政奉還がなって、龍馬の利用価値が下がったのか?
そもそも、大政奉還なんか誰からも評価されていなかったのかも。
幕府は大政を帝に返したが解体されたわけじゃない。依然として、藩としての力は日本一のままだ。大政奉還しても、徳川がいる限り新しい仕組みを作るのは困難。旧勢力を一掃しなかったら、新しい日本は生まれない。
その為には、武力で掃討するしかない。これが改革派の大勢の考え方だったんじゃないかなぁ。
それに、新しい日本で権力を担うには、存在感を高めておきたい。と誰でも考えるよね。


そういう意味において、武力行使に否定的な龍馬は利用価値の無い存在だったのではないか。
そういう男を藩邸に入れると、いろいろうるさい。だから藩邸には入れない。ほっておけ。となったのでは。護衛すら付けなかった。
言わば、見殺しだ。
龍馬が危ないのは、当時としては自明のことだったはず。


龍馬が命を狙われるのは明らかだった。しかし、誰も護らなかった。
中岡慎太郎も龍馬同様の扱いだったのかもしれない。そして、二人が揃うのを待って、刺客が放たれた。


二人が揃うのを一早く知り得たのは土佐藩だろう。近江屋は目と鼻の先である。
龍馬憎しと思っている連中に「龍馬近江屋にあり」を漏らしたのではないか。


実行犯は分からないが、影に土佐藩が絡んていると思うなぁ。