席の譲り合いと母の優しさ

昼間、飯も食えずに電車で移動中でのこと。品川から山手線に乗り換え恵比寿に向かった。五反田でスーツ姿の年老いた紳士が乗り込んで来た。前の駅で運良く座れた僕は、反対側の窓から見えるホームの様子をぼぉーっと眺めていた。老紳士が少し頼りげない足取りだったもので、僕の視線は老紳士に吸い寄せられた。
老紳士は空いている車内を見渡し、空いた席がない事に少しがっかりした表情を見せた。
もし自分の前に立ったら、いやいや、彼が立ち止まっても席を譲る人が現れなかったら、さっさと譲ろうと身構えた。


そして老紳士は僕の斜め前に立ち止まった。間髪入れずに立ち上がり、「さぁ、こちらへお座り下さい。」と声をかけた。「いやいや、いいですよ。」と遠慮する老紳士。「構いませんから、どうぞ。」と言った瞬間、僕の隣に座っていた若い女性が、「あっ、どうぞどうぞ。」と言って立ち上がった。
一番ドア寄りの席に座っていたその女性は、幼い子供を乗せた乳母車を片手で支えていた。見るとその幼な子は、やや障害がある様子だった。年は3歳以上に見えた。焦点の定まらない目をさまよわせていた。


老紳士は、思いがけずも目の前に空いた二つの席にまだ座ろうとしない。
心の中で、「爺さん、早く座りなさいな。二つの親切を受ける事なんて滅多に無いんだから。これを袖にしたら、ばちが当たるよ。」などとつぶやきながら、老紳士の右腕を掴んで半ば無理矢理に僕の席に誘導した。老紳士は、何かぼそぼそとつぶやいて、おとなしく席に座った。
「こんな時は素直に感謝の言葉を口に出すもんだよ。」と思いながら、若い母親が空けてくれた席を見下ろした。一瞬、「私はいいから貴女が座りなさい」、と言おうと思ったが、それは他人の親切を無にする事になると思いなおして、軽く頭を下げ、「ありがとう」と言いながら座らせて貰った。


幼な子は、乳母車から手を伸ばして僕のカバンを掴もうとした。母親はすぐにそれに気づいて、一言、子供の名前を呼んだ。子供はすぐに手をひっこめ、ちらりと僕を見た。僕はどきりとした。幼な子が、非難している様に感じたからだ。


恵比寿に着いた時、席を立ちその母親に「ありがとうございました。」と礼を言うと、彼女は「とんでも無いです。」と朗らかに応えてくれた。


僕の行動に彼女の優しさが触発されたのは間違いないと思う。そして、障害のある子を持つ境遇がその優しさとは無関係では無いだろうと感じた。


僕には、彼女がとても美しく思えた。