恐怖のはじまり (フィクション)

僕は博多祇園交差点を青信号で渡っていた。同じ方向に渡る人々の中に少し背の曲がった老婆がいた。明るい色合いの服を着てゆっくりだがしっかりと歩いていた。なぜかその背中から視線を離せずにいると、老婆が渡りきるその時、その腰から白い紙切れがすっと現れ何にも引っかからずに地面に落ちた。それには何やら大きな文字が書かれているようだった。


僕はすぐにそれを拾い老婆に声を掛けようと視線を前に向けた。が、曲がった背中は消えていた。一緒に横断歩道を渡った人の群れで老婆だけが消えていた。紙切れを拾い上げる僅かな時の流れが一人の人間を掻き消してしまった。
呆然としつつ紙切れに視線を移した。そこには底の知れない闇を思わせる黒さで大きく「死」の文字が浮かんでいた。そして小さく「鈴木」と。


老婆が消えた場所の対角地点で、男は信号が青に変わるのを待っていた。問い面の角にはうどんのウエストがある。
目の前を過ぎる車の流れが途切れて、見上げると信号は右折信号に変わっていた。と、男は横断歩道を歩き始めた。スマホをのぞき込んでいる若い女がつられて歩き出した。
信号無視の直進車が大きなブレーキ音と共に突っ込んで来た。車は横断歩道を15mほど進んで横向になって止まった。
宙に飛ばされた二人は車の更に5m先に奇妙な形に折り重なっていた。男の免許証が落ちていた。名は鈴木晴生だった。
少し離れた所で女のスマホが着信音を響かせていた。


老婆を見失いその場に立ち尽くしていた僕は、大きなブレーキ音とドンという乾いた音を聞いてはっと我に返った。音のした方を振り向くとフロントガラスが割れて斜めに止まった車が見えた。そして少し離れた路上に人が倒れているのを見た。


大変だ!助けよう。
たった今青になった横断歩道を渡りながら事態の成り行きを眺めていた。手元の紙切れに視線を落とすと、不気味な闇の文字は跡形もなく消えていた。