2回目の事件(フィクション)

僕は、嫌々ながらも仕方なく都内の朝の通勤電車に乗っていた。
前泊で泊まった横浜青葉区の会社寮からの通勤電車である。悪名高き田園都市線
これの急行は本当に身動きが取れなくなる。青葉台駅で7時20分頃に乗車した頃は、まだ他人との間に隙間があった。拳一つくらいかな。
横浜市営地下鉄との乗り換え客が多いあざみの駅で、その拳程度の隙間がほぼゼロになる。そして、たまプラーザ駅でまったく身動きが取れなくなる。
普段は博多の徒歩通勤である僕にとってこの超混雑は苦痛以外の何物でもない。だから30分程早く寮を出れば良いとは思うのだが、元来のねぼすけは、なかなか早く起きることが出来ない。
乗客は無表情か不愉快顔のどちらかだ。そんな超混雑の中であっても、スマホを見る者、本を読む者、ヘッドホンからシャカシャカ音を出す者、そういう迷惑者が必ず居る。
背の高い若い男がスマホを見ている。スマホと目の距離を確保するために背中を後ろに反らしている。その後ろに居る乗客はひどく迷惑顔をしている。
田舎者の僕には乗客達の不平不満や怒りや呪いまでもがびしびしと感じられるのである。


その日は、たまプラーザ駅を7時半過ぎに発車した。つり革を掴んで、左右と後ろからの圧力に耐えていた。
後方に過ぎ去るホームに見覚えのある曲がった背中を見た。祇園交差点の老婆を思い浮かべた。
まさかこんな所に居るわけがない。
すぐさま脳裏に浮かんだ老婆の背中を払いのけようとしたが、今度はあの事故で犠牲になった二人を助けようと駆けつけた時の衝撃を思い出した。
血だらけの顔、奇妙に捩れた手足、女の口から吐き出される血の泡。落ちていた免許証の名前を見た時からしばらくは震えが止まらなかった。
鈴木晴夫。
さらにネットで知った女の犠牲者の名前が鈴木美智子


闇の文字が浮かんでいた紙きれは、あの現場で失くしてしまった。
あれに浮かんでいた「鈴木」の文字。
見間違いではない。手に取ってしっかり見たのだ。
あれとあの事故は繋がっているのだろうか?
老婆は関係有るのだろうか?


時間が経つにつれて、それらに関係が有るわけがないと自分の中で腑に落ち、全てが過去のものとなっていた。
しかし、いま、何やら騒ぐこの胸が、この超混雑の車内で何かが起こるのではないかと警告を鳴らしていた。
心臓は不整脈となり不規則だが激しく全身を震わせた。呼吸が苦しくなり、横隔膜が痙攣しそうになる。
脂汗が額に浮かんだ。そんな僕に無関係に時間は流れ、電車は普段どおり鷺沼に到着した。
僕の心臓と横隔膜も落ち着きを取り戻した。


電車のドアが開いた。いつもなら一部の客が降り、降りた客と同じくらいの数の客が乗るという一連の動きが淡々と進むのだが、この日はちょっと違っていた。
開いたドアと反対側にいた客から「降りま〜す。」とか「ちょっと、ちょっとぉ。」とか声が出た。何人かの客がおしくらまんじゅうをするようにやや怒気を含んだ一団となってドアを出て行った。
すると、「おおぅ。」「えっ。」「だいじょうぶか。」そんな声が上がり騒然となった。
どうやら誰かが倒れたらしい。


僕は冷静に事態を観察した。見える範囲内で何か異常は無いかと注意深く気を配った。


「誰か非常ボタンを押してくれ。」


電車は15分ほど足止めとなった。
車内放送では「ただいま急病人が出ましたのでその対応のために停車しております。お忙しいところ誠に申し訳ありませんがしばらくお待ちください。」とメッセージが流れた。
乗客の多くは不満顔になる。


僕は窓の外で繰り広げられる急病人の搬送を見ることができた。
その急病人はスマホのために背を後ろに反らしていた若い男のようだった。
顔から血の気が引いている。何かの発作が出たにしては静かだ。
僕の観察では一連の騒ぎの中で異常な行動をする者は居なかった。


搬送が終わり、運行が再開した。
鷺沼駅の渋谷方面行きホームは危険を感じるほどの混雑になっていた。


その日の夜、ANA269便のジャンボ機で博多に戻った。
マンションでテレビを観た。


NHKのニュースで今朝の田園都市線で発生した奇怪な事件が短く報じられた。
満員の通勤電車で若い男性が命を落としたというのである。目立った外傷は無く、持病も無いことから今のところ変死扱いであるが、事件性が無いかを警察が捜査する事になったそうだ。
亡くなったのは、鈴木駿一、29歳、会社員。


僕の中で何かが弾けた。背筋が凍り後ろを振り返るのが怖くなった。
何が起きているんだ?
僕の名は、鈴木遼。狙いは僕なのか?