八女古墳群から柳川へのぷち歩き旅

天気も良く花粉も感じられず最高のウォーキング日和。
まずは石人山古墳まで2km程度を行く。
途中に青木繁文学碑と書かれた木碑が立つ建物があったけど、青木繁と言えば画家のはず。どういう由来の物なのか意味不明だった。

道路に面した石人山古墳の入り口は木々に覆われていて、この先が神の世界であるということを感じさせた。

石段を上がると長い一本道が真っ直ぐ伸びている。2週間前なら桜のトンネルだったに違いない。

花が綺麗で歩みが遅くなる。

急な石段が現れて、ここからが前方後円墳の前方部なんだと気付いた。
全長100mほど。こうやって歩くとその巨大さを実感できる。
後円部の始まる辺りに石の武人が立っていた。そしてその背後数m先にに石棺が置かれた石室がある。


石の武人は王の眠る石室を愚直に1500年間守り続けて来たんだ。そしてこの先ずーっと守り続けてゆく。
ここは磐井王の祖父か曽祖父の古墳と推定されてるらしい。

資料館の方のお話しが面白かった。
あくまで個人的見解ということだったが、宮崎の西都原古墳群と比較すると八女古墳群は盗掘がひどいらしい。
西都原古墳群はどうかというと、盗掘はほとんど無く周辺のまちづくりもとてもきれいらしい。
曰く、おそらく古墳時代からの気質がずーっと維持されてると思うんですよ。何と言いますか、たたりを恐れるという感じですかね。罰が当たるってやつです。

それって、日本固有の気質だよなと聞きながら感じたんだけど、でもそれがずーっと続いて古墳が大切にされて来たということは、そこ西都原古墳群の地は特別な土地だったのではないかと思うんだよね。
ひょっとしたら邪馬台国はそこにあったんじゃないかって、そんな気がしました。
特別な土地という意味は、そこの王は国民を大切にしたんだろうということと、他国より知恵や豊かさが抜きん出た国柄だったんじゃないかということ。
他国もそれを認めており、倭国の大乱を治める女王がそこから出たんじゃないのか。つまり卑弥呼が。実際、宮崎の日向から日本武尊が東遷に出航したという伝説があるからね。


石人山古墳のすぐ近くに弘化谷古墳という大きな円墳があり、その佇まいはUFOのよう。

石室は様々な文様が描かれた装飾古墳です。磐井王より百年程後の古墳らしく、大和朝廷時代の王墓は前方後円墳と決まってるのにそうでないということには、埋葬された王の反骨心か或いは一度乱を起こした国としての遠慮心のいずれかの現れなのかなと感じた。


この後、いよいよ磐井王の岩戸山古墳に向かった。
古墳群は八女丘陵に集中しており、今回のウォーキングはその丘陵地隊を延々と歩くことになった。丘から見下ろす八女市にはどこまでも茶畑が広がっていました。

さすがは名高い八女茶の産地です。

茶畑以外に目立ったのは牛の畜産です。食肉用なのか乳用なのかは分かりませんが。麦畑も沢山ありましたね。


これが岩戸山古墳です。石人山古墳より更に一回り大きいそうです。

近くの四号墳では石室内に入ることが出来ました。巨石を組み合わせた石室は現代人を圧倒する厳かさがあります。

資料館の方によると、王の死後遺体はすぐに埋葬されず開かれた空間にしばらくそのまま安置されるモガリと言う期間があったそうで、それを裏付ける痕跡がこの八女古墳群から発見されているそうです。


乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳、丸山塚古墳という順に巡って、気付くともう午後4時半。まだまだ古墳はあるけれど、柳川で鰻も食べたいしなぁということで、矢部川に南下し川沿いを柳川駅に向かうことにしました。
日没はおそらく6時半くらいだから、後2時間で約10km、それにプラスαくらいで柳川駅に着くんじゃないかと思ったのですが、これがむっちゃ甘かったんですね。
行けども行けども柳川の文字は見えず、結局5時間後の夜9時半に柳川駅に到着しました。ほとんど歩きっ放し。
もう鰻を食べようにも店を探す元気も無く、帰りの西鉄の時間を調べると、8分後の9時38分の特急が来るってんで、そのまま改札を通っちゃいました。


途中、矢部川で自生クレソンを採っている方と話したり、多くの皆さんと挨拶を交わしたりして、八女の皆さんの素朴さに心を打たれました。

矢部川沿いに巨大な楠


今回の歩数は、約5万歩。
距離は、約38kmでした。
さすがに疲れました。
太ももと腸骨筋に疲労が溜まった感じです。